出演者プロフィール

※年齢は2015年の台湾公開時

湾生回家 出演者 冨永勝
冨永勝とみながまさる

昭和2年(1927年)1月1日生まれの88歳。花蓮港北埔農場(現花蓮県新城郷)生まれ。

北埔農場には日本人の住んでいる家が5軒しかなく周りには多くの台湾人やタイヤル族が住んでいた。冨永さんは幼少の頃から台湾人とタイヤル族とよく遊んでいたため、現在でも台湾語が少し話せる。花蓮港小学校、花蓮港中学校の出身。台南師範学校(現台南大学)に進学するも2年生の時に終戦。昭和21年(1946年)4月3日花蓮港から引き揚げ4月6日に鹿児島港から上陸している。現在でも幼馴染(台湾人)との交流がある。現在は徳島県板野郡北島町で暮らしている。

湾生回家 出演者 家倉多恵子
家倉多恵子いえくらたえこ

昭和5年(1930年)3月11日生まれの85歳。台北市生まれ。

父親が台湾総督府に勤める公務員だった。台北市立幸小学校、台北州立第一高等女学校に通学するが、父親の仕事の関係で花蓮高等女学校に転校をする。3年生の時に終戦を迎え、昭和21年4月に花蓮港から引き揚げ鹿児島港から上陸している。現在は福井県敦賀市で暮らしているが、定期的に台湾の埔里でロングステイをしている。

湾生回家 出演者 清水一也
清水一也しみずかずや

昭和18年(1943年)3月28日生まれの72歳。花蓮港吉野村(現花蓮県吉安郷)生まれ。

祖父の清水半平氏が日本人移民村・吉野村の村長を務めていた。自身は昭和21年(1946年)4月、3歳の時に花蓮港から引き揚げ鹿児島港から上陸している。台湾での記憶はほとんど無いが、自身のルーツを探すため、定期的に生まれ故郷である吉安郷(旧吉野村)を訪れている。また台湾と日本の交流にも精力的に参加。現在は群馬県高崎市に暮らしている。

湾生回家 出演者 松本洽盛
松本洽盛まつもとこうせい

昭和12年(1937年)3月6日生まれの78歳。花蓮港瑞穂生まれ。

幼少期に花蓮港上大和(現花蓮県光復)へ移住。父親が瑞穂の警察署に勤める警察官であった。鳳林国民学校に通学。2年生の時に花蓮港小学校へ転校。3年生の時に終戦を迎え、昭和21年4月に花蓮港から引き揚げ鹿児島港から上陸している。現在は奈良県奈良市に暮らし、定期的に花蓮でロングステイをしている。将来的には花蓮に移住をしたいとも考えている。

湾生回家 出演者 中村信子
中村信子なかむらのぶこ(旧姓:竹中)

昭和5年(1930年)11月26日生まれの85歳。台北生まれ。幼少期に蘇澳へ移住。

祖父の竹中信景氏が蘇澳冷泉の開発に貢献をした。蘇澳小学校、藍陽高等女学校に通学。3年生の時に終戦を迎え、昭和21年(1946年)3月に基隆港から出港し鹿児島港から上陸している。現在でも蘭陽高等女学校の同級生(台湾人)との交流がある。また毎年蘇澳で開催される蘇澳冷泉祭に招待をされている。執筆活動もしており著書に「植民地台湾の日本女性生活史」などがある。現在は東京都練馬区に暮らしている。

監督プロフィール

湾生回家 監督 ホァン・ミンチェン 黄銘正
ホァン・ミンチェン黄銘正

台湾のアカデミー賞といわれる金馬奨で、1998年に最優秀短編作品賞を受賞した『トゥー・ヤング』(第14回東京国際映画祭上映)で注目される。本作では、プロデューサーが同郷であった縁で監督に抜擢される。当初「湾生」を全く知らなかったが、「湾生」たちとの触れあいの中で、彼らの中に潜むドラマを発見し、「湾生」たちが戦後の混乱をどう生き延びたのか、 また、台湾でどんな生活を送り、台湾のことをどう思っているのか、「湾生」たちの孤独な心情に寄り添い、彼らの目線に立って本作を完成させた。

今年に入り、新作『傻瓜向錢衝』が台湾で公開され好評を博している。

出会いの痕跡

与那原恵/ノンフィクション作家

湾生回家 ノンフィクション作家 与那原恵 コメント

 人はなぜ「記憶」を抱きつづけるのか、記憶の作用とは何だろう。本作を見ながら考えたのは、そのことだった。日本統治下の台湾で生まれ育った「湾生」たちが台湾を訪れ、あふれ出る思い。台湾の光、空、海、鮮やかな緑、空気につつまれ、かつて暮らした場所で自らの存在の根を確かめるようなまなざしに胸を打たれる。

 半世紀にわたる日本統治時代、多くの日本人が台湾へ渡った。映画に登場する湾生たちが生まれた前後の昭和10年(1935年)の国勢調査を見ると、台湾の総人口約512万人のうち「内地人」(日本人)は約27万人。日本人の出身地域(本籍別)は、当時の47道府県すべてに及び、その上位は九州、中国、四国地方の出身者だ。渡台した日本人の背景や職業は多様で、それぞれ異なる「台湾体験」があった。

 当時の台湾の一世帯平均人数は5.8人。年齢別では0~4歳が最も多く、90歳以上までの各年齢層を図にすると、見事な三角形になり、住民の平均年齢は22.8歳だ。そのころの台湾は若々しく、幼い子を育てながら懸命に働く家族が主体であったことがわかる。

 また総人口のうち農業人口が約半数を占めており、日本人移民も農業との関わりが最も深かっただろう。台湾総督府による官営移民事業は明治42年(1909年)、すでに北海道開拓移民が好成績をあげていた徳島県で「模範移民」を募ったのが始まりだ。本作品にもある吉野村・豊田村・林田村などが形成され、開発が遅れていた台湾東部地域への農業移民が増大していった。東部海岸地域では日本人漁業移民奨励事業も展開され、距離的に近い沖縄人漁民も多くやってきた。

 沖縄出身の私の祖父は、大正8年(1919年)に渡台して台北で暮らし、母もそこで育った。のちに上京した母は、苦労の多い人生を歩んだが、晩年は台湾人の友人の写真も多くあるアルバムをくりかえし眺めて思い出話を語った。歳月とともに浄化されていく台湾の記憶、それは苦しい現実を乗り越えるための糧だったのだと思いいたる。私が祖父と母が暮らした台北の家を探し当てたのは、母の没後30年を経るころだ。祖父が終戦1年後に引き揚げたあと、その家には台湾人一家が暮らし、彼らの記憶も刻まれたことを知った。空き家になって久しい朽ちた木造家屋を、私は感慨深く見つめるばかりだった。

 映画に、かつてともに過ごした台湾人と再会するシーンがある。日本の「南進政策」のもとに進められた台湾領有は、台湾人が望んだ運命ではない。けれど植民地時代の台湾人と日本人の出会いは、よい面も悪い面もあったにせよ、消し去れない痕跡となっている。湾生たちを温かく迎える台湾人の表情には救われる思いがした。

 日本人が台湾から引き揚げたのち、台湾は激動の時代を生きた。民主化を遂げるまでの道のりも平坦ではなかった。そうして今、湾生たち個々の記憶と人生に耳を澄ませ、本作品に結実させた台湾・日本の若き映画人がいることに感動をおぼえる。同時に、台湾人にとって日本統治時代とは何だったのか、もっと深く知りたいと思う。映画の登場人物が語るように、台湾は日本にとって「大事な国」であり、日台両国のこれからをともに考えていきたい。記憶とは、未来を見すえるためにも紡がれてきたはずだから。