わが故郷、わが台湾― 敗戦後、この日本に戻っても、いつも心は台湾にあった・・・

物語

湾生回家 物語 内容

 物語は、清水家の法要のシーンから始まります。清水家は、苦労して荒廃した土地を豊かな農場へと変えました。それなのに、何も持てないまま日本に帰国することに。何故、自分の故郷を追われなければならないのか……。帰国したとき3歳だった清水一也さん(72歳)に、台湾での記憶はほとんどありません。しかし、「湾生」の存在が歴史の闇に埋もれ、忘れ去られようとしているなか、台湾への深い思いを語り続けます。

 独り暮らしをする冨永勝さん(88歳)は、かつての友人を捜しに何度も台湾を訪ねています。捜し当てた場所にいたのは、亡き友にそっくりなその息子。わずか数か月前に他界したという友の妻の言葉。こみ上げる失望、喪失感、涙と悔恨。歳月の壁と闘いながら、友人たちを、ともに遊び戯れた場所を、心に留めおくために幾度となく台湾に向かいます。

 松本洽盛さん(78歳)は、花蓮県の瑞穂郷で生まれました。帰国当時は9歳。父は警察官でした。「自分の家はどこだ?」という疑問に答えを見つけるため、台湾への旅を重ねています。そして、自らの土に還る場所は、故郷の台湾だと決めています。

 家倉多恵子さん(85歳)は、台北で育ち、女学校のときに父親の仕事の関係で台北から花蓮へ転校しました。日本人でありながら、この日本で異邦人として暮らすことに苦しみ続けています。自分の本当の居場所はどこなのか……。自問自答を続ける日々。ある日、台湾で自分の戸籍を発見します。

 中村信子さん(85歳)は、台湾で何不自由のない生活を送り、台湾に残ることを強く望んでいました。日本に戻った後、台湾は日本の植民地であったこと、そして、そこでは差別や不平等が横行していたことを知ります。

 台湾に残った湾生である片山清子さんは、幼少時に台湾人に預けられました。そして、80年間ずっと実の母親の居場所を探していました。何度も挫けそうになりましたが、娘や孫の助けを借り、やっと一筋の希望が見えてきました。待ち続けた80年間、想いがかなう時が訪れます。

 本作は、登場する「湾生」たちそれぞれの物語であるだけでなく、約20万人の「湾生」の人々の物語でもあります。彼らの身を焦がすような台湾への愛から生まれた作品であり、時間と空間を超えた人間同士の友情と家族の絆の物語です。

残された時間のなかで「湾生」たちが語る言葉の端々から、台湾に対する信頼と絆、愛、希望、そして平和への願いが、私たちの心の中に静かに響いてきます。

湾生、その始まりと終わり~台湾移民についての基礎知識

稲見公仁子/台湾映画研究家

湾生回家 台湾映画研究家 稲見公仁子 コメント

 太平洋戦争の終結、敗戦により、満州や朝鮮半島、台湾などいわゆる外地にいた日本人は内地(本土)に引き上げざるを得なくなった。その数は、軍人・軍属・民間人併せて約660万人といわれている。中国大陸からの引揚者は、残留孤児のこともあって比較的知られているが、台湾からの引揚者についてはあまり知られていないのではないだろうか。

 当時、台湾に渡った日本人は、公務員や企業の駐在員のほか、官営移民の農業・漁業従事者がいた。農業従事者の官営移民は、大きく分けて明治42~大正6年(1909~17年)と昭和7(1932年)以降の2つの時期に分けて行われている。民営移民の試みもあったが、資金不足で思うような効果は挙げられなかったようだ。官営移民の募集は、徳島・香川・愛媛・広島・山口・福岡・佐賀・熊本・鹿児島といった四国・九州・中国地方を中心に行われた。西日本中心の募集になったのは、亜熱帯から熱帯に位置する台湾の気候への順応や、この地での農業との適性などを考慮してのこと。内地的には土地不足や農村経済の低迷を解決するための移民策と見られ、一時的なものではなく定着を前提とし、素行や健康状態、教育程度などが審査され、家族での移民であることや定着資金250円以上を所有していることをクリアしなければ移住することはできなかった(段階的に家族を呼び寄せるのは可)。漁業従事者の官営移民は、1908(明治41)年からで沖縄から千葉までを対象に募集されていた。このほか、第一次大戦後の不況期においては、台湾に職を求めた人々もいた。

 入植地が主に台湾島の蘇澳や花蓮、台東など東部であったのは、漢民族の入植が西部に比べて進んでいなかったため、土地が入手しやく集団居住しやすかったことなどによるが、裏を返せば交通・衛生・先住民(台湾原住民)の問題など困難の多い土地だったということでもある。その困難を乗り越え、子々孫々この地で……というところでの戦争。軍事訓練の合間の申し訳程度の授業。学徒動員で命を落とす若者。敗戦、そしてすべてを捨てての引揚……。その無念さは想像を超える。

 敗戦により日本人と台湾人の社会的ポジションは大きく変わり、なかにはそれまでの反動で辛い目に遭った日本人もいたが、大規模な報復はなかった。台湾人との間に友情の絆を紡いできた人々も少なくなく、暮らし向きも悪くなかったことから、当時約48万人(軍人・軍属16万人、民間32万人)いた日本人のうち、約20万人が台湾に残ることを望んでいたといわれている。

 引揚は軍人・軍属から始まり、昭和21年(1946年)2~4月にかけて民間人約30万人が第一次引揚として日本に帰還した。このとき、中華民国政府によって有用であるとして教育・専売・電力・糖業・各種産業・鉄道・港湾などの技術者や学者など留用された日本人とその家族約2万7千人が台湾に留め置かれた。同年10~12月までにそのうちの約1万8千人が第二次引揚として帰国を果たし、約3,200人が昭和22年(1947年)の「2・28事件」を受けて第三次引揚として帰還。昭和24年(1949年)8月までにほとんどの日本人が引揚を完了した。

 戦前の日本人と台湾人・先住民(原住民)の関係は、支配(統治)する者とされる者であったことは確かで、たとえば学業の面で進学に際して台湾人には言語や生活習慣などで高いハードルが設けられ、それは差別待遇として受け止められるものであった。が、そんななかでも個人レベルで親愛の情は育まれた。それは、搾取するだけの支配者ではなく、ともに歩もうという姿勢があったからではないだろうか。

 外地のなかでもいちばん長く日本の一部であった台湾。そこで生まれ育った湾生、また生まれこそ違え骨を埋める覚悟で海を渡った日本人にとって、台湾は何にも替え難い故郷そのものであった。引揚という辛い現実を前にした日本人に、あたたかい手を差し伸べた市井の台湾人が多々いたというのも、お互い同じ台湾の地を愛する者同士、相通ずるものがあったからだろう。戦争により引き裂かれた絆は、日台友好の原点であった。